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ディオールのデザイナー

クリスチャン・ディオール
Christian Dior
エディ・スリマン
Hedi Slimane
イヴ・サンローラン
Yves Saint Laurent
クリス ヴァン アッシュ
Kris Van Assche
マルク・ボアン
Marc Bohan
ジャンフランコ・フェレ
Gianfranco Ferre
ジョン・ガリアーノ
John Galliano
ラフ・シモンズ
Raf Simons

クリスチャン・ディオール Christian Dior

christian_dior.jpg メゾン創立者としてわずか10年という活動期間でありながら鮮烈な足跡を残したクリスチャン・ディオール(Christian Dior)
クリスチャン・ディオールは1905年1月21日、フランスの北西部ノルマンディー地方マンシュ県グランビルで 化学肥料製造会社の経営者の息子として生まれました。その後パリに移り、 1920年から1925年まで両親の希望に沿って外交官になるためフランスのシアンスポ(パリ政治学院)で学んでいましたが、 ディオールは次第にアートへの興味を強くしていきます。
1928年、父の出資によりアンティークのディーラーであった友人と共にアートギャラリーを開き絵画などを扱っていましたが、 1930年になると父親の会社の倒産とそれに伴うギャラリーの閉鎖、さらに母の死など、苦難を味わいます。
その後、しばらくオートクチュールハウスのスケッチデザインによって生計を立てていたディオールは 1938年、ロベール・ピゲ(Robert Piguet)のメゾンで働き、第二次世界大戦の兵役に就いた後 1941年、パリに戻りリュシアン・ルロンのメゾンにデザイナーとして入りました。
その時の同僚にピエール・バルマン(Pierre Balmain)がいます。

1946年12月16日、ディオールが「41歳で出会った運命の人」と語るマルセル・ブサック(コットン王と呼ばれる大富豪) の支援を受け、パリ・モンテーニュ通30番地にクリスチャン・ディオール・オートクチュール・メゾンを開きました。
そして翌1947年2月、クリスチャン・ディオールは春夏コレクションにてセンセーショナルなデビューを飾ります。
ペチコートで膨らませた曲線を強調し、なだらかな肩にコルセットで細く絞ったウエスト、 20メートルもの布地をたっぷり使ったくるぶし丈のロングスカートといった、砂時計のような8の字形の優美なスタイルの 「エイト・ライン(コロール・ライン)」を発表。
戦争による物資不足で布の使用を抑えていた服に対し、贅沢に布を使用した優雅なディオールのコレクションは 「ニュー・ルック」と呼ばれ、フランスのクチュリエ達の絶大な支持を得ました。
そしてこの年、ディオールはモード界のオスカーと呼ばれる「二ーマン・マーカス賞」を受賞します。

さらにクリスチャン・ディオールは香水部門にも進出し、 1948年、パルファン・クリスチャン・ディオール(ミス・ディオール)を設立。
ニューヨークに支店を出し、来るべき大量消費時代を予見したディオールは 1949年にオートクチュール・メゾンとしては初となるライセンス事業に乗り出し、 ストッキングの生産を開始。
翌1950年、ネクタイのライセンス生産を開始。
マルセル・ブサックから学んだ経営のノウハウを活かし、クリスチャン・ディオールは実業家としての一歩を踏み出しました。

実業家としてのディオールとは別に、デザイナーとしての才能も発揮してゆきます。
  • 1947年「ニュー・ルック」発表
  • 1948年「ジグザグ・ライン」発表
  • 1950年「パーティカル・ライン」発表
  • 1951年「オーバル・ライン」発表
  • 1952年「シニュアス・ライン」発表
  • 1953年「チューリップ・ライン」発表
  • 1954年「Hライン」発表
  • 1955年「Aライン」「Yライン」発表
  • 1956年「Fライン(アロー・ライン)」「マグネット・ライン」発表
  • 1957年「リバティー・ライン」発表。「スピンドル・ライン」製作
クリスチャン・ディオールはシーズン毎に革新的なラインを提案し、 半年毎にファッションのトレンドを変えるというシステムを生み出しました。
「作品が生まれた理由は特にない」、「昨シーズンの作品はアウト・オブ・トレンド」等とも語っています。
また、コレクションで発表するアイテムの中の1つに必ず愛犬「ボビィ」の名を付けて発表していたという逸話もあります。

1957年10月24日、イタリア・モンテカティーニにて、心臓麻痺で死去。享年52歳。
次々と新しいスタイルを生み出したことから「流行の神様」とも呼ばれ、 戦後のパリ・オートクチュール界の頂点に君臨したクリスチャン・ディオール。 彼の跡は若きイブ・サン・ローランが主任デザイナーとして引き継いでいくことになります。

イヴ・サンローラン Yves Saint Laurent

ココ・シャネル、クリスチャン・ディオール、ポール・ポワレらとともに20世紀のファッション界をリードし、 トップデザイナーとして40年に渡り活躍。 「モードの帝王」と呼ばれ世界的な名声と富を得ながら、薬物とアルコールに溺れた半生。 イヴ・サンローランとはどんな人物だったのでしょうか。

ysl.jpg イヴ・サンローラン(Yves Saint Laurent)は1936年8月1日、当時フランスの植民地だったアルジェリアのオランで、 保険会社で勤務する中産階級の両親の家庭に生まれました。
その後パリに移ったイヴ・サンローランは、パリのファッションデザイン学校(Chambre Syndicale de la Haute Couture) に入学し、17歳の時に国際羊毛事務局(IWS)主催のデザインコンクールのドレス部門でカクテルドレスを発表し、最優秀賞を受賞します。
ちなみに、そのカクテルドレスの縫製はユベール・ド・ジバンシィ(Hubert de Givenchy)で、 またその時の毛皮部門の受賞者は後のシャネルのデザイナーであるカール・ラガーフェルド(Karl Lagerfeld)でした。
この時の審査員であったVOGUE誌の編集長ミッシェル・ド・ブリュノフは、友人であるクリスチャン・ディオールの 新作と同じ肩から裾にかけてAの文字のように広がっているシルエット(Aライン)の線を描くイヴ・サンローランの ポートフォリオを見て驚き、彼女の推薦により翌年クリスチャン・ディオールのメゾンに迎えられことになりました。

独創的で創造力に富んだイヴ・サンローランのデザインは、ディオールに非常に強い感銘を与えることになります。 1957年、ディオールはスタッフに「次のコレクションで発表するスピンドル・ラインはイヴの仕事に基づく私の最新のデザインです。 彼の才能は特別です。私は彼に認められたい」と言い、次のコレクションでイヴ・サンローランを世に出すと言ったそうです。
そして、それが同年10月24日のクリスチャン・ディオールの死によって現実のものとなります。

イヴ・サンローランは21歳の若さでディオールの主任デザイナーとなり、 1958年春のコレクションで、より広くより短く裾の線がちょうど膝をカバーするくらいの台形のデザインを用いた 「トラペーズ(台形)・ライン」を発表。 同年秋のパリ・コレクションにはこのラインを採り入れたデザインの服を発表しました。
「イヴ・サンローランはフランスを救った。偉大なるディオールの伝統は続きます」と新聞は大きな見出しで取り上げ、 人々は彼のデザインに魅了されました。イギリスのウィンザー公爵夫人もその1人です。

イヴ・サンローランはディオールで6つのデザインを発表しましたが、1960年アルジェリア独立戦争でフランス軍に徴兵されます。 そこで神経衰弱を患ったイヴ・サンローランは、フランスの精神病院に収容され 電気ショック療法を含む精神医学的な治療を受けました。このことが影響してか、後にイヴは 地位を確立してからもプレッシャーから薬物とアルコールにストレスのはけ口を求めることになります。

イヴ・サンローランの抜けたディオールは、代理の主任デザイナーに当時34歳だったイヴの兄弟子 マルク・ボアン(Marc Bohan)を起用。コレクションで「スリム・ライン」を発表し大好評を得ます。 それによってイヴがパリに戻ったときには既にマルク・ポワンがディオールのデザイナーとしての地位を固めており、 サンローランは事実上ディオールを解雇となりました。

1962年、ディオールを去り神経衰弱の治療を終えたイヴ・サンローランは、 フランス人画家のベルナール・ビュフェのマネージャーで恋人の ピエール・ベルジェ(Pierre Berge)、アメリカの実業家マック・ロビンソンらと組み、 オートクチュール・メゾン「イヴ・サンローラン(YSL)」をスタートさせます。 ベルジェは優れた経営手腕を発揮し、サンローランを公私に渡って献身的に支え続けました。

1963年、イヴ・サンローランは近代ポスターのパイオニアであり第一人者であるカサンドラ(A.M. Cassandre)に 自らのロゴのデザインを依頼。YとSとLを組み合わせたロゴはこのとき生まれました。 以後、YSLロゴを用いたデザインは「カサンドラ・ライン」と呼ばれることになります。

1965年、「モンドリアン・ルック」発表。
1966年、「イヴ・サンローラン」のプレタポルテ・ラインである「イヴ・サンローラン リヴ・ゴーシュ」の ブティックをパリ左岸に開設します。当時、オートクチュールのブティックはパリの右岸に集まっており、 オートクチュール(仕立て服)からプレタポルテ(既製服)へのシフトを示しました。
その年、「女性をイブニングドレスから解放した」という、 男性の正装とされていたタキシードを女性の夜の服として発表し、パンツルックの先駆けとなりました。
また、現在でもイヴ・サンローランの香水や化粧品のイメージ広告モデルとして活躍している カトリーヌ・ドヌーブの主演映画「昼顔」の衣装のデザインも手がけています。
60年代後半にはそれ以外にも、太ももまであるロングブーツやミリタリー・ルック、サファリ・ルック、 シースルー・ドレス、ポップアート・ドレス、パンタロン・スーツなどを発表。 どれもモード界に衝撃を与え、ココ・シャネルをして「イヴ・サンローランこそ私の後継者」 と言わしめました。

70年代にはコサック・ルックやフォークロア調の服が知られ、 その頃からオートクチュールにも磨きがかかり、その巧みな色彩感覚とともに「モード界の帝王」と呼ばれるようになり、 ヨーロッパのジェット族(余暇を持て余す有閑階級)と上流階級に絶大な支持を得ました。
1971年、親交が深かったアメリカの石油王の妻、タリサ・ゲッティが薬物の過剰摂取で死亡。 それでも薬物と縁が切れず、ショーの後、震える体と不明瞭なスピーチで観客に挨拶するイヴ・サンローランの姿が さまざまな憶測を呼び、度々死亡説が流れました。

1989年、ファッションブランドとしては初となる、パリ証券取引所に株式を公開。
1993年、パリで「デ・ドール(金の指ぬきを意味する)賞」を受賞。 同年、仏石油エルフ・アキテーヌ傘下のサノフィ・ボーテ社に買収されます。
1998年、フランスワールドカップを記念してブランドの歴史を振り返るような壮大なコレクションを開催。
1999年、ピノー・プランタン・ルドゥート(PPR)社がサノフィ・ボーテ社を買収。 プレタポルテ・ラインのリヴ・ゴーシュと香水・コスメ部門はPPR系列下のグッチに売却され グッチグループの一員となり、イヴ・サンローラン・リヴ・ゴーシュは1999秋冬のアルベール エルバスを経て 2000年からトム・フォードがデザインすることになります。 イヴ・サンローランのオートクチュール・ラインはPPR傘下として残ることになりました。
2001年には、フランスのシラク大統領よりレジオンドヌール勲章(名誉の軍団の国家勲章) コマンドゥール(司令官、3等)を授与されています。

2002年の1月22日、イヴ・サンローランはパリ・オートクチュールコレクションを最後に引退。
同年10月31日、「イヴ・サンローランのオートクチュールメゾンは、彼以上の才能を持つデザイナー後継者を 将来にも見つけることは不可能とし、歴史に幕を閉じた」としてパリ・アヴェニューマルソーのアトリエが閉店。 オートクチュールは閉鎖されました。
2007年12月6日、フランス・サルコジ大統領からレジオン・ド・ヌール勲章グラントフィシエ(大将校、2等)を 授与されています。

そして2008年6月1日、脳腫瘍により逝去。享年71歳。
50年来の恋人でありビジネスパートナーのピエール・ベルジェと、デザインのインスピレーションを 与え続けたモデルでドラッグやアルコールなど享楽を共にしたベティ・カトルー(Betty Catroux) の二人に看取られて逝きました。
パリで行われた告別式にはカトリーヌ・ドヌーブやサルコジ大統領夫妻ら800人が参列し、 フランスだけでなく世界中のマスコミで大きく取り上げられました。 ピエール・ベルジェは「シャネルは女性に自由を、サンローランは力を与えた」と述べたそうです。

マルク・ボアン Marc Bohan

marc-bohan.jpg 1926年8月22日、マルク・ボアン(Marc Bohan)は編集者の父と婦人向け帽子デザイナーの母のもとパリにて生まれました。
1945年、パリの名門リセ・ラカナルを卒業したマルク・ボアンは、クリスチャン・ディオールユベール・ド・ジバンシーも指導を受けたロベール・ピゲ(Robert Piguet) のもとでデザイナーとしての経験を積みました。
マルク・ボアンはそこでシンプルさの価値、どうすればデザインをおさえられるかを学びます。
1948年、エドワード・モリヌー(Edward Molyneux)のメゾンへ移り、 1953年秋にボアンは自身の店を開きました。しかし、その店はコレクションを1回発表しただけで閉店となります。
翌年ボアンはジャン・パトゥ(Jean Patou)のメゾンでレイモン・バルバスのもと主任デザイナーとなり、 1958年まで務めたあと、現シャネルのデザイナーであるカール・ラガーフェルド(Karl Lagerfeld) に後任を託してクリスチャン・ディオールのロンドン店へ移りました。

1960年9月、ディオールのデザイナーだったイブ・サン・ローランの徴兵により急遽パリへ呼ばれ、 ディオールの主任デザイナーに就任。当時34歳。以降、1989年まで30年近くに及ぶ長期に渡ってディオールのコレクションを生み出しました。

1961年春のコレクションにて細いシルエットが特徴的な「スリム・ルック」でデビュー。
マルク・ボアンのコンサバティブなデザインは、イヴ・サンローランのこれまでのエレガントで優美な クリスチャン・ディオールブランドらしからぬデザインにより離れた従来の顧客を引き戻すことに成功しました。 スリム・ルックはアメリカでは「ヒッピー・ルック」と呼ばれ好評を得ます。

以降、マルク・ボアンはロマンティックかつ上品な作風で、映画をはじめ演劇、オペラ、バレエなどの衣装も多く手がけていきます。 1966年秋のコレクションでは、ミニスカートにロング・コートの組合わせの ロングコート・オン・ミニスカートを提案し、好評を得ました。
1967年、「サファリルック」発表。
1970年、「マキシ・ルック」発表。 マルク・ボアンのデザインにより、「クリスチャン ディオール ムッシュコレクション」が誕生します。
1974年、ディオールのレディース・プレタポルテのデザイナー、フィリップ・ギブルジェに代わりプレタポルテも 担当することになります。ボアンのプレタポルテはスポーティー感溢れるデザインで女性達の支持を得ました。 またこの年、イラン国王戴冠式でのファラ王妃のドレスを手がけています。
1975年のコレクションでは、印象派の絵画をプリントした生地を使用。 翌1976年にマルク・ボアンはスウェーデン女王のウェディングドレスをデザインしています。
1977年、プレタポルテ・コレクションにてパーカーやキュロットのスポーツ・ルック、ジジ・ルック、ギブソン・ガールズなどを発表。
1978年秋のコレクションで「マニッシュ・ルック」を発表。モナコ公国・キャロリーヌ王女の結婚衣装を制作。
1981年、ジャンポール・ラプノーの映画『イザベル・アジャーニ 炎のごとく』のイザベル・アジャーニのコスチュームを担当。
1983年春のオートクチュールコレクションで、デ・ドヌール賞を受賞。

そして1989年、マルク・ボアンはディオールを去ります。 後任のデザイナーにはジャンフランコ・フェレが就きました。

ディオールを去ったマルク・ボアンは1989年、ノーマン・ハートネル(Norman Hartnell)で クリエイティブ・ディレクターに就任。1992年まで務めました。

ジャンフランコ・フェレ Gianfranco Ferre

ジャンフランコ・フェレ(Gianfranco Ferre)は素材の特性を活かし、 論理的思考が織りなす構築的で優美なデザインが特徴的です。 シンボルカラーの白と情熱的な赤をコンセプトとし、切れ味鋭い作風で知られています。

gianfranco_ferre.jpgジャンフランコ フェレは1944年8月15日、イタリア・ロンバルディア州レニャーノ(Legnano)生まれ。 ミラノ工科大学建築学科で建築学を学び、1969年、卒業。
建築家の資格を持っているためか、ジャン・フランコ・フェレのデザインには建築的な特徴があります。
卒業後は技術開発・指導のためインドに渡り、東洋文化の影響を受けることになります。

イタリアに帰国したジャンフランコ・フェレは、当初インテリアデザイナーをしていましたが、 1972年、友人のアクセサリーをデザインしたことを契機にアクセサリーのデザインを手がけるようになります。
その後、フェレはミラノファッション界の権威であるウォルター・アルビーニのアクセサリーをデザイン。 デザイナーとしての名声を高め、Tシャツやスポーツウェアなどのデザインも手がけました。
1973年、バイラ社に入り、翌年ジャンフランコ・フェレ自身初となるプレタポルテコレクションを発表。
順調に実績を重ね、1978年、自身のブランド「Gianfranco Ferre」を立ち上げ、ミラノコレクションに初参加。 幼い頃、母の着ていたブラウスをイメージして仕上げられた白のブラウスが注目を浴び、一躍有名になります。 ジャンフランコ・フェレは白をシンボルカラーとしましたが、 「情熱的な赤(インペリアル・レッド)」を用いたデザインも人々を魅了しました。
その後良質な素材を探し求め、よりエレガントな路線へと進んでいき、 80年代にはジョルジオ・アルマーニ (Giorgio Armani) ジャンニ・ヴェルサーチ (Gianni Versace) と共に「ミラノの3G」と称され、「ロッキオ・ドーロ(ゴールデンアイ)賞」を5回受賞することになります。

1982年、メンズコレクションを発表。
1988年、セカンドライン「STUDIO0001 BY FERRE」(1997年 GIANFRANCO FERRE STUDIOに改称)スタート。
1989年、クリスチャン・ディオールのアーティスティック・ディレクターに就任し、 秋のオートクチュールコレクションにおいて、クリスチャン・ディオールのデビュー作である「ニュールック」を モチーフにしたデザインを発表。
当初、イタリア人がフランスの代表的なブランドであるクリスチャン・ディオールのデザイナーに就くことには賛否両論がありましたが、 就任直後に20%の増益をもたらし、反発する人々をジャンフランコ・フェレは自らのデザインで納得させました。
翌年にはフランスの「デ・ドール賞」を受賞。精力的にデザイン活動をこなし、ディオールを牽引していきました。

1996年、クリスチャン・ディオールのデザイナー職をジョン・ガリアーノ(John Galliano)に譲り、 ディオールを去ることに。 「クチュールはディオール以外考えられない」と語り、以降、オートクチュールに携わることはありませんでした。

ディオールを去ったジャンフランコ・フェレは、1996年秋に「ジー・エッフェ・エッフェ(GFF)」、 1997年春には「ジャンフランコ・フェレ ジーンズ(GIANFRANCO FERRE JEANS)」と、 立て続けにディフュージョン・ラインをスタートさせました。
1998年、Gianfranco Ferre創立20周年を記念してミラノ・ポンタッツイオ通りに本社社屋が完成。 地下2階、地上3階、7000平方メートル超の広さで、緻密かつ大胆な発想にもとづき細かく計算された造形が、 ジャンフランコ・フェレの建築家としての側面を見せています。
2005年、複数あるラインを、ファーストライン「ジャンフランコ・フェレ(GIANFRANCO FERRE)」、 中核事業にあたるプレタポルテの「フェレ(FERRE)」、セカンドラインの「GFフェレ(GF FERRE)」の3つに集約。 なお、レディースの Lサイズコレクションは「フェレ」ラインにおいて「フェレ・レッド(FERRE Red)」として存続しています。 また同年、大韓航空のフライトアテンダントの制服デザインを手がけています。

2007年6月17日夜、ミラノの病院で脳内出血により死去。享年62歳でした。
その1週間後に行なわれたミラノコレクションでは、ジャンフランコ・フェレの これまでの功績に惜しみない拍手が送られました。

ジョン・ガリアーノ John Galliano

john_galliano.jpgジョン・ガリアーノ(John Galliano)は1960年、スペイン南部のイギリス領・ジブラルタルに生まれました。 本名はホアン・カルロス・アントニオ・ガリアーノ(Juan Carlos Antonio Galliano)。 母親はスペイン人、父親はジブラルタル出身でロンドンで配管工を営んでおり、 6歳のときジブラルタルから父の住むロンドンに移住しました。
ウィルソングラマースクールを卒業後、ジョン・ガリアーノはセントラル・セントマーチンズ・カレッジ・オブ・アート・アンド・デザイン のテキスタイル科に入学。途中、モード科に移籍し、1984年6月、セントマーチンズのモード科を首席で卒業しました。
卒業制作の作品「アフガニスタンとヨーロッパの理想」がロンドンのサウス・モルトン・ストリートのブティック「ブラウンズ」の ジョーン・バーンスタイン(Joan Burstein)の目に留まり、同店のショーウィンドウを飾り、好評を得ました。
これがきっかけとなり、ジョン・ガリアーノとブラウンズは5年契約を結び、ジャケットをボトムに使った「さかさまの服」、 ジャケットを裏返して逆さまにした服などを発表し、ガリアーノのアヴァンギャルドなデザインが注目を集めました。
当時のヴォーグ誌のコラムでは「ロマン主義と心理主義の得意な流行衣装の請負人」と、ジョン・ガリアーノを賞賛しています。

1985年、春夏ロンドンコレクションでデビュー。デリケートなバイアスカットのドレスとオーダーメイド・スーツが 高い評価を得ました。
デザインのみならずカッティングとバイアスの確かさ等技術面での評価が高く、ロンドン時代のジョン・ガリアーノは 「恐るべき子供」と評されています。
しかしその後、投資者とデザインを巡ってトラブルを起こしたり、資金難でコレクションを開くことができない 状態になったりするなど苦境の時期を迎えます。

1986春夏コレクションで水に濡れたオフェーリア風の少女ルック、86-87秋冬コレクションではイノセント・ルックなど、 19世紀のラファエル前派の影響を受けたデザインを発表。
1987年、初の「ブリティシュ・デザイナー・オブ・ザ・イヤー」を受賞。
1988年になるとハイ・ウェストのシルエットをつくるためにボレロを使用し、 1989秋冬ロンドンではチュニック、また80年代後半にはデコルテに薄いスカーフをかけたデザインも発表しています。

しかし、当時のファッションはグランジファッションとミニマリズムが主流で、ジョン・ガリアーノの現代に持ち込んだ 50年代風の華やかなスタイルとテーラリング技術にこだわり続けたデザインは、 その手法・創造力は高く評価されていましたが"売れない服"という烙印を押されたりしました。
こうしたことから90年代以降、ジョン・ガリアーノは活動の場をロンドンからパリへ移すことになります。

1989年、パリ・オートクチュール協会の招待で秋冬コレクションに参加。ポワレからヒントを得たコレクションを発表。
1990年春夏パリ・コレクションでブリジッド・バルドー(50・60年代のセックスシンボル)を意識したドレスを発表し、 1991年にはパリ・コレクションの正式メンバーに加わります。
パリに移ってからもジョン・ガリアーノはロンドン時代同様に資金に苦しんでおり、友人宅に身を寄せながら スポンサーを求めて資金の工面に奔走していました。資金難から17着の服全て黒の生地のみ、モデルも有志により参加 というコレクションを開いたりもしました。

こうした苦境の中、ジョン ガリアーノに転機が訪れます。
1994年、2度目の「ブリティシュ・デザイナー・オブ・ザ・イヤー」を受賞すると 翌1995年、ユベール・ド・ジバンシィ(Hubert de Givenchy)が1995秋冬オートクチュールコレクションを最後に 自身のブランドGIVENCHYを引退することになり、後任のデザイナーとしてジョン・ガリアーノが 大抜擢されることとなります。
ガリアーノはジバンシィの後を受けて1996春夏コレクションを発表。 この年3度目の「ブリティシュ・デザイナー・オブ・ザ・イヤー」を受賞しています。

翌1996年、ジバンシィにて秋冬コレクションを発表した後、後任をアレキサンダー マックイーン に譲り、ジャンフランコ・フェレの後を受けてクリスチャン・ディオールの デザイナーに就任。「マサイ族」をテーマに1997春夏コレクションを発表しました。
1997年、4度目となる「ブリティシュ・デザイナー・オブ・ザ・イヤー」をアレクサンダー・マックィーンとともに受賞。
2003年、ディップティック(DIPTYQUE)とコラボレートし、ジョン・ガリアーノ初のフレグランスアイテムとなる 「エッセンス・オブ・ジョン・ガリアーノ(essence of John Galliano)」を発表。
2006年、SILグループとランジェリーのライセンス契約を結ぶ。
2007年春夏で、セカンドライン「ガリアーノ(Galliano)」を発表。
2008年、ジョン・ガリアーノ初のファインジュエリー・コレクションをスタート。
2009年3月6日、東京・表参道の表参道ヒルズにジョン・ガリアーノの世界初の直営フラッグシップ店となる 「galliano 表参道ヒルズ店」をオープン。
2010年、ジョン・ガリアーノのベビーラインをスタート。 この年、サルコジ大統領からレジオン・ドヌール勲章(名誉の軍団の国家勲章)シュヴァリエ(騎士、5等)を授与されています。

順調にデザイナーとしての地位を確立していたガリアーノでしたが、 2011年2月24日、パリのユダヤ人街マレ地区のカフェで酒に酔い人種差別発言をしたとされ警察当局に拘束されてしまいます。 それによってディオールから停職処分を受けることになりますが、暴言を浴びせているビデオが公開されたことにより 3月1日にディオールのデザイナーを解任され、その後自身のブランドである「John Galliano」のデザイナーも 解任されることとなってしまいました。
ちなみに「John Galliano」の後任デザイナーには長年に渡りガリアーノの右腕として共にコレクションを作り上げてきた ビル・ゲイテンが就任しています。

ラフ・シモンズ Raf Simons

Raf_Simons.jpgラフ・シモンズ(Raf Simons)は1968年1月12日、ベルギー・ニールペルト郊外のゲンクで生まれました。
地元の工業デザイン学校で写真やビデオ等を学んでいた学生時代、アントワープ王立芸術学院の教授であり W.&.L.T.(ウォルト)のデザイナーであった「アントワープ6人衆」の1人として知られる ウォルター・ヴァン・ベイレンドンクのアントワープオフィスで インターンとして働いたことでファッションに興味を持つようになります。
大学卒業後、家具のギャラリーで2年間働いていましたが、マルタン・マルジェラ のコレクションを見て衝撃を受け、次第にファッションへの思いが強くなり、メンズウェア・デザイナーを志すようになります。

そして独学で服作りを学んでいたラフ・シモンズは、アントワープ王立美術アカデミーのファッション学科ディレクター、 リンダ・ロッパに見出されます。
同アカデミーはヴェロニク・ブランキーノ(Veronique Branquinho)、リーヴ・ヴァン・ゴルプ(Lieve Van Gorp)、 ユルギー・パーソーンズ(Jurgi Persoons)、シュテファン・シュナイダー(Stephan Schneider)、 アンナ・ヘイレン(Anna Heylen)、ヴィム・ネールス(Wim Neels)、A.F.ヴァンデヴォルスト(A. F. Vandevorst)、 ベルンハルト・ウィルヘルム(Bernhard Willhelm)らアントワープ派と呼ばれるデザイナーを多く輩出しており、 ラフ・シモンズも入学を希望しましたが、面接時にデザインコンセプトや技術、デザイナーのあるべき姿等を饒舌に語ったので、 それらを学ぶために存在するアカデミーに貴方は入学する必要がない、と言われたそうです。

リンダ・ロッパの後押しを受けて1995年1月、ミラノでプレゼンテーション形式ながら自身のブランド 「Raf Simons」のコレクションを発表し、その後舞台をパリに移し3季続けてコレクションを発表しました。
1997年秋冬で初めてパリ・メンズ プレタポルテ・コレクションに参加。また、1999年春夏と秋冬のコレクションで イタリアの高級革製品メーカーのルッフォ(RUFFO)社が展開するルッフォ・リサーチのデザインを 当時恋人であり、理解者でもあったヴェロニク・ブランキーノとともに担当。 ラフ・シモンズはこのコレクションでメンズ部門を担当しました。

その後、2000A/Wを最後にラフ・シモンズは創作活動を一時休止します。活動を休止した理由として 「自分自身のクリエーションをすこし考えたかった」「休養期間」「会社の内部構造を立て直す」などとされています。
2000年10月からウィーンの応用美術大学でファッションの講師を務めながらも、 活動休止中にベルギーのメーカー「CIG」の協力を取り付けデザイングループを結成。 2001年秋冬からコレクション活動を再開します。 このコレクションではアントワープの路上でスカウトした一般人をモデルとして起用し、 幾重にも重ね着をしたスタイルで話題を集めました。

2003年11月29日、スイスのルツェルンで行われたコンテンポラリー・デザイナーコンクールでグランプリを受賞。 デビッド・ボウイにインスパイアされた少年のナイーブさと、そこから生み出される力強さを ロックを通して表現するという手法がラフ・シモンズの人気を支えています。

2005年7月1日、ジル・サンダー(JIL SANDER)のメンズウェア及びレディースウェアの クリエイティブ・ディレクターに就任。同ポジションは2004年11月に創業者のジル・サンダーが辞任して以来空席でした。

2006年春夏より、セカンドライン「ラフ・バイ・ラフ・シモンズ(RAF BY RAF SIMONS)」をスタート。

ジル サンダーでの2007年春夏レディース・コレクションはミニスカート、ミニドレス、細身のパンツなどが中心となった ミニマルなデザインで、さらに色使いと素材、テーラードのスタイルの組み合わせが素晴らしく、高い評価を受けました。

2008年秋冬より、フレッド・ペリー(FRED PERRY)とのコラボレーション「RAF SIMONS FRED PERRY Collaboration」で ポロシャツやカーディガン等の13点のコレクションを発表。シンプルにするためカラーはブラックのみながら、 どのアイテムも異なる素材が用いられています(2011年春夏を最後に展開を一時休止)。

2008年9月3日、東京・青山に世界初となるラフ・シモンズの旗艦店「ラフ・シモンズ アオヤマ」をオープン。 次いで10月、大阪にも旗艦店をオープン(どちらも2010年10月末で閉店)。
またこの年、イーストパックとのコラボレーションによる「イーストパック・ラフシモンズ(EASTPAK RAF SIMONS)」を発表しています。

2011年、「RAF BY RAF SIMONS」の展開が終了し、2つの新ラインを始動。 ブランド設立15周年を記念して「RAF SIMONS 1995」がスタート。過去の名作をリアルクローズにリファインしてリリース。 そして「RAF SIMONS HOUSE」からは、ファッションにプロダクトデザインの要素を取り入れてきた ラフ・シモンズならではのホームウェアが展開されています。

2012年秋冬コレクションを最後にジル・サンダーのクリエイティブ・ディレクターを退任 (後任にジル・サンダーが復帰)。

そして同年4月9日、人種差別発言により解雇となったジョン・ガリアーノの後を受けてラフ・シモンズはクリスチャン ディオールのアーティスティック ディレクターに就任します。 ディオールのオートクチュール、レディースプレタポルテ、アクセサリーを指揮することになり、 2012年7月のパリ オートクチュール・コレクションが初の発表となります。
さらに「RAF SIMONS FRED PERRY Collaboration」が2013年春夏シーズンより復活。 新コレクションは28スタイルのウェアとアクセサリーで構成。

ディオール・オム(DIOR HOMME)のデザイナー

エディ・スリマン Hedi Slimane

hedi_slimane.jpgエディ・スリマン(Hedi Slimane)は1968年にフランスのパリで生まれました。
入学難易度の高さでは屈指のフランスの名門校グラン・ド・ゼコールを卒業し、その後、ルーブル美術学校(Ecole du Louvre)で 歴史と美術史を学びます。エディ・スリマンは10代の時にファッションに興味を持つようになり、独学で服作りを始めましたが、 きちんとしたデザイナーとしての教育は受けていません。

1990年から1994年までジョゼ・レヴィ(Jose Levy)の下でファッション・ディレクターを務め、 94年から96年までファッション・コンサルタントであるジャン=ジャック・ピカールのアシスタントを務めました。

当時は無名に等しかったエディ・スリマンでしたが、1997年イヴ・サンローランのメンズプレタポルテラインとなる 「イヴ・サンローラン リヴ・ゴーシュ オム(Yves Saint Laurent rive gauche HOMME)」の アーティスティック・ディレクターに抜擢され、同ラインの立ち上げを見事成功させます。
また、1998年よりイヴ・サンローランのジーンズライン「サンローラン・ジーンズ(SAINT LAURENT JEANS)」も手がけています。

1999年、PPRとグッチ・グループによる買収が起こり、イヴ・サンローランのオートクチュール部門はPPR傘下に、 プレタポルテ部門であるリヴ・ゴーシュと香水・コスメ部門はグッチ・グループの一員となりました。 この買収劇の中、翌2000年エディ・スリマンはイヴ・サンローランを離れます。

そして2001年「ディオール・オム(DIOR HOMME)」の立ち上げに携わることになり、 ディオール・オムのクリエイティブ・ディレクターに就任。 同年の秋冬コレクションは世界中にセンセーションを巻き起こしました。 黒を基調とした色調でタイトなシルエットを表現し、'00年代のメンズファッションに1つのトレンドを生み出します。 こうしてエディ・スリマンは「イヴ・サンローラン リヴ・ゴーシュ オム」の立ち上げと 「ディオール オム」の立上げを見事成功させました。
これらの活躍を受けて2002年4月、エディ・スリマンはCFDAより「デザイナー・オブ・ザ・イヤー」に選ばれました。

エディ・スリマンはコレクション毎にテーマを掲げ、それに沿ったデザインを発表しています。
2001-2002 A/W 「SOLITAIRE」
ロマン派の構成主義的な発想から、構造と動きとの対比を定義。モチーフはキャスパーデイヴィッド・フリードリッヒの理念。
2002 S/S 「Boys don't cry/red 最後ヌード」
エレクトロクラッシュという新しい音楽ジャンルの誕生を示すコレクション。 ベルリンとウィリアムスバーグで活動を始めたエレクトロクラッシュのミュージシャンたちにも影響を及ぼす。
2002-2003 A/W 「REFRECTION」
パレ・ド・トウキョウ オープンの頃。ブラックスキニージーンズとぴっちりとした白シャツが絶妙なバランス。 裏原系の人達の多くが影響されたコレクションで、以降更にストリートファッション化。
2003 S/S 「FOLLOW ME」
デヴィッド・ボウイのツアー衣装のために制作したカットアウェイジャケットやディオール・オムの代表的アイテム『デニム』の誕生。 かなりストリート寄りでカッティング、カラーリングも斬新。bee刺繍ネクタイ、bee刺繍シャツも登場。
2003-2004 A/W 「LUSTER」
ゴシック様式からアイディアを得て、ベルリンからインスパイアされたコレクション。 エルトン・ジョンもお気に入りで、鎧や甲冑がモチーフ。 布地にツヤを出す加工を独自開発し、光の反射を活かすために全てが真っ黒の中で行われたショー。
2004 S/S 「STRIP」
エディ・スリマン自身がロックへと傾倒していく時期。スキニースーツスタイルはそのままに、 シャイニーでスーツにホワイトスニーカーを合わせたロックな印象。細い肉体の胸元を大胆にみせるセクシャリティも表現。
2004-2005 A/W 「VICTIM」
インディーズロックに関連する最初のコレクション。これまでのプロポーションをリセットし、ショート丈のジャケットが誕生。 エディの興味がロンドンへと向いてゆく様を示したショー。
2005 S/S 「BECK」
ナチュラル、グランジのフィーリングをテーマにしたショー。インディーズロックがファッションに戻ってきた 本当に初期のコレクション。エディ・スリマンのフォトグラファーとしての写真集『STAGE』をリリース。
2005-2006 A/W 「GLAM」
イーストロンドンのインディーズロックシーンへとトリビュート。ロックをテーマにした集大成ともいえるコレクション。 ゴールドブーツが光る。Ben Swankのドラムパフォーマンスをバックにグラム・ロックが鳴り響く。 モデル、曲、ドラム演出等そのほとんどをエディ・スリマンの友人らによって構成。
2006 S/S 「MODS/SKA」
ピート・ドハ―ティに捧げたコレクション。伝統的な「モッズ/スカ」の復活。ショーのミュージックは、THE RAKESが手掛ける。
2006-2007 A/W 「these grey days」
デヴィット・ボウイの『THIN WHITE DUKE』に捧げたショー。男性へのクチュール回帰を提案。タキシードとシャツは美しいの一言で、 ロックテイストから脱却し、メランコリーに満ちたオートクチュールの世界のショー。
2007 S/S「We look good together」
アンダーマイカーデニム誕生。エディ・スリマン自身もお気に入りで、ショーでは本人も着用。
2007-2008A/W 80's new wave
エディ・スリマンのラストコレクション
2007年秋冬コレクションを最期にディオール・オムのデザイナーを辞任します。
エディ・スリマンがディオール・オムとの契約を更新しなかった理由として 「自身のブランドを立上げたい」「金銭的な契約の問題で折り合いがつかなかった」 等さまざまな憶測が飛び交っていますが、事実は判明していません。 なお、ディオール・オムの後任のデザイナーにはクリス ヴァン アッシュが就任しました。

ディオール・オムを退社したエディ・スリマンはフォトグラファーとしての活動を開始。 プラダ(PRADA)の2009年春夏メンズコレクションのキャンペーンフォトを撮影する等、 雑誌、ビッグメゾンの広告などの仕事もこなしました。

2012年3月7日、かつて在籍したイヴ・サンローラン(Yves Saint Laurent)のクリエイティブ・ディレクターに就任。 ディオール・オムのクリエイティブ・ディレクターを退任して以来、約5年ぶりにデザイナーに復帰します。
イヴ・サンローランのブランドイメージおよびメンズをはじめエディ・スリマン自身初となるレディース部門等 全コレクションを統括することになります。
なお、イヴ・サンローランのクリエイティブ・ディレクターと並行して、フォトグラファーとしての活動も継続しています。

クリス ヴァン アッシュ Kris Van Assche

krisvanassche.jpgクリス ヴァン アッシュ(Kris Van Assche)は1976年、ベルギーに生まれました。
1998年にはアントワープ派と呼ばれるデザイナー達を多数輩出したアントワープ王立美術アカデミーを卒業。
卒業後、イヴ・サンローランのメンズライン「イヴ・サンローラン リヴ・ゴーシュ オム」に入り、 エディ・スリマン(Hedi Slimane)のアシスタントを務めました。

2000年、クリスチャン・ディオールにエディ・スリマンと共に移り、引き続きアシスタントとして ディオールのメンズライン「ディオール・オム(DIOR HOMME)」立ち上げに尽力し、見事成功に収めました。
クリス ヴァン アッシュはディオール・オムで2004年まで活躍します。

ディオールを退社した翌年の2005年、クリス ヴァン アッシュ自身初となる自らの名を冠したブランド 「クリスヴァンアッシュ(KRISVANASSCHE)」を設立し、2005-2006年秋冬パリコレクションでデビューしました。
また翌年、「トランスコンチネンツ(TRANS CONTINENTS)」と契約し、2006-2007年秋冬よりメンズの新ブランド 「テーラー・デザイン(Taylor design)」を発売しました。クリス ヴァン アッシュはディレクターとして、ブランドイメージやデザイン等 ブランド全体を統括。ちなみに「テーラー・デザイン(Taylor design)」は、上質な「テーラー(仕立て)」と、 「マスキュリン(男性的)」という 2つの意味と響きなどの要素からイメージされています。

2007年春夏メンズコレクションでは12体のレディースウェアを発表。レディースコレクションも手がけるようになります。
2007年秋冬、ピッティ・イマジネ(Pitti Immagine)にてゲストデザイナーとしてインスタレーションを発表。

そして2007年3月、エディ・スリマンの離脱を受けてディオール・オムのクリエイティブ・ディレクターに就任し、 2008年春夏でコレクションを発表。エディ・スリマンによるこれまでのロックテイストよりなモードからエレガントでクラシカルなイメージへシフトしました。 クリス ヴァン アッシュは「基本に帰った新しいエレガントなスタイル」と語っています。

クリスチャン・ディオールの看板を背負い、偉大なる師エディ・スリマンの幻影に付き纏われ、 純粋に評価されにくい面もありましたが、徐々にクリス ヴァン アッシュらしさを発揮し、 今では誰もが認めるディオール・オムのデザイナーとなっています。

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